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2013.04.01

海のある街    ペーパーフィルター 1

 いままでぼくが知り合った、すべての人へ。

 これは喪失のものがたりだ。


  ── ペーパーフィルター ──

 妻と別れて最初に買ったのは、ペーパーフィルターだった。
 ドリップ式のフィルターだ。
 妻は──いや、いまは元妻だった──、コーヒーメーカーで淹れたり、パック式のもので充分だからといって、ペーパーフィルターを買うことはなかった。ヤカンではちゃんとした珈琲が入れられないからと、専用のポットをぼくは持っていたのに肝心のフィルターを買うことはなかった。
 きっと珈琲のほんとうの美味しさを味わったことがないからだ。ぼくはそう思っている。
 結婚してしばらく、だからぼくは家で珈琲を飲むことはほとんどなかった。彼女が淹れてくれた珈琲は、ぼくが知っている珈琲とは別のものだった。それでいつも紅茶を飲むようにしていた。
 結婚をすると、それまでのやり方をすこしだけ変えていく必要がある。それは生活のリズムだったり、あるいはそれまでのスタイルだったり、ぼくなりの儀式といったことを捨てたり、方向修正したりしていくことになる。
 独りで住んでいたときとは違うのだ。
 ましてや子どもができると生活は一変する。
 だから珈琲を、それまでの淹れ方で飲めなくなってもそんなに不満はなかった。
 ぼくに珈琲のほんとうの美味しさを教えてくれたその喫茶店は、中野にあった。
 あれは大学の四年の頃だ。だからもうずいぶん昔の話になる。
 普通、珈琲を入れるときに使う豆はだいたい十グラムから、せいぜい十五グラムぐらい。それを湿らせたペーパーフィルターに放り込んで淹れる。
 でも、その店は違った。最低でも三十グラムは使う。ときには四十グラム使うこともあった。
 しかも、豆にもこだわりがあって、注文によっては煎り方の違うものを混ぜたりと採算を度外視して珈琲を飲ませてくれた。
「趣味でやっているようなものだからなぁ」
 マスターはいつも、伸ばし放題伸びている髭を撫でながらそういっていた。

※この物語は、私小説と与太話の中間のようなものだと思ってもらいたい。
 実在の人物や、実在のお店などが出てきても、あくまでもフィクションです。

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