一週間のはじまりはいつなのか?
このところ、というか、具体的にその時期がいつなのかということをきちんと書くとなると、それはきっと逗子に引っ越しをしてからということになるんだろうけど、曜日の意味をなるべくなくしたいと思ってきた。
休日だからなにもしない、というのが、いままでの考え方だったけど、やりたいことがあればたとえ休日だろうとやればいいし、リラックスしたのであれば、それが水曜日の昼間であっても浜辺で寛ぐべきだと思っている。
けれど、これがなかなか実行できない。
理由のひとつはやはり疚しさだ。
貧乏性だなとそれを笑っていたけど、きっとそうじゃない。ただぼくが常識という重い錘に引き摺られていただけなのだ。
なにが仕事で、なにが遊びなのか。もしかして、そんな区別なんて必要ないだろうと思い切ることができないでいたのだ。仕事は仕事だと、ね。
でも、このところ心変わりしている。
曜日の感覚がなくなったり、勘違いに近い感覚で、はっきりと曜日を認識していないということではなく、曜日の意味が崩壊していくといえばいいんだろうか、そんな状態になりつつある。
曜日によってやることが決まっていて、だから日曜日には休むということではなく、今日はこれをやりたいからやるということになりつつある。
きっかけは、さて、なんだったろうか?
もしかしたら、このところ土日に Web の作業していたからかもしれない。もしかしたら、先週末はよんどころのない用件でわざわざ車で出かけなければいけなかったからかもしれない。
あるいは、本屋で「7 曜日の法則」なんて本を立ち読みしたからかもしれない。
ともかく、いまぼくの中で曜日の意味が崩壊しつつあるのだ。これはとても歓迎すべきことだ。
ということで、これをしっかりと身につけるために、一週間のはじまりを変えることにした。
いままでぼくは月曜から週がはじまり、土日は週の終わりだから休むといった感覚で過ごしていた。たとえば iCal なんかはもちろん、カレンダーを買うときだって月曜スタートのものを買っていた。
おまけにローカルで書いている日記も月曜スタートだ。
それをたったいまから、というか、昨日からだけど、日曜スタートに変えることにした。
だから今日は週の二日目。
新鮮というよりは、もっともっと曜日の意味を崩壊させようという企みだ。
これがうまくいけば、そこになにが待っているのかよくわからないけど、水曜日の昼間、浜辺でビール片手に寛げたら、この企みは成功に近づいているといえるだろう。
休日だからなにもしない、というのが、いままでの考え方だったけど、やりたいことがあればたとえ休日だろうとやればいいし、リラックスしたのであれば、それが水曜日の昼間であっても浜辺で寛ぐべきだと思っている。
けれど、これがなかなか実行できない。
理由のひとつはやはり疚しさだ。
貧乏性だなとそれを笑っていたけど、きっとそうじゃない。ただぼくが常識という重い錘に引き摺られていただけなのだ。
なにが仕事で、なにが遊びなのか。もしかして、そんな区別なんて必要ないだろうと思い切ることができないでいたのだ。仕事は仕事だと、ね。
でも、このところ心変わりしている。
曜日の感覚がなくなったり、勘違いに近い感覚で、はっきりと曜日を認識していないということではなく、曜日の意味が崩壊していくといえばいいんだろうか、そんな状態になりつつある。
曜日によってやることが決まっていて、だから日曜日には休むということではなく、今日はこれをやりたいからやるということになりつつある。
きっかけは、さて、なんだったろうか?
もしかしたら、このところ土日に Web の作業していたからかもしれない。もしかしたら、先週末はよんどころのない用件でわざわざ車で出かけなければいけなかったからかもしれない。
あるいは、本屋で「7 曜日の法則」なんて本を立ち読みしたからかもしれない。
ともかく、いまぼくの中で曜日の意味が崩壊しつつあるのだ。これはとても歓迎すべきことだ。
ということで、これをしっかりと身につけるために、一週間のはじまりを変えることにした。
いままでぼくは月曜から週がはじまり、土日は週の終わりだから休むといった感覚で過ごしていた。たとえば iCal なんかはもちろん、カレンダーを買うときだって月曜スタートのものを買っていた。
おまけにローカルで書いている日記も月曜スタートだ。
それをたったいまから、というか、昨日からだけど、日曜スタートに変えることにした。
だから今日は週の二日目。
新鮮というよりは、もっともっと曜日の意味を崩壊させようという企みだ。
これがうまくいけば、そこになにが待っているのかよくわからないけど、水曜日の昼間、浜辺でビール片手に寛げたら、この企みは成功に近づいているといえるだろう。
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