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2011.06.10

いつもやっていることをやっていれば、いつも手に入るものしか手に入らない。

 このところ同じ時間の電車で出かけ、同じ時間の電車で帰るという日々が続いている。
 確かに、家を出る時間は前後することがあるし、買い物をして帰ることも多いから、決まりきった時間で過ごしているわけではない。それでも判で押したようなという表現があてはまる毎日だといえるだろう。
 それがいいことか悪いことか。あるいはそういう判断をすべきことではないんだろうか?

 ぼくは電車に乗れば、すぐに iPhone の Simplenote を起動して、どんなことでもいいからなにか書くことにしている。これはいいか悪いではなく、必要な習慣づけだ。毎日繰り返すことだけど、これに関しては、判で押したようなという表現は当たらないだろう。
 けれど思考を伴わない行動、この場合でいうと、同じ時間の電車に乗るということだが、それで日常を定型化することになにか弊害がありそうな予感がしている。
 同じ時間に起きて、同じような時間に海へ行って写真を撮り、同じように Web 巡りをして、リストを確認してメールして、いつも同じことを、同じように繰り返す。そこに新しい発見があるだろうか? あるいは新しい一歩があるんだろうか?

 同じ日常を繰り返す。
 とてもストイックなイメージを抱いてしまうが、しかし、それはある見方をすれば硬直化しているともいえる。
 硬直化すると、ひとはその場になんとか留まろうとして、むしろ退化してしまうと個人的には感じている。そう、同じ日を繰り返すということは、もしかしたらこれは、あまり褒められたことではないんじゃないだろうか。
 いや、なにもだからといって、毎日別ルートでしかも違う路線の違う電車に乗るといったゲーム感覚で出かけろとは言わない。
 そこまでやる必要はないだろうし、定型化するということは、効率化とか、あるいは一定の水準を保って処理することには欠かせないことなのかもしれない。
 けれど、なにか新しいものを生み出すということで考えれば、定型化は自らが作った安全なポジションの中だけでなにかをするという居心地の良さしかもたらさない。
 日常に埋没してしまう大きな落とし穴がそこにないとは、誰にも言い切れないだろう。

 ということで、もし可能であれば、日常化することなく、日々をそれぞれ特別な今日として生活してみようと思う。
 って、これ考えるだけでも、けっこう手間がかかりそうだから、ほんとうにできるのかどうかはわからない。けれどいつものご飯に味噌汁に卵の朝食を、ときにはパスタにしてみるとか、ちょっと想像できないけどラーメンにしてみるとか、そんな些細なことでもいいかもしれない。
 ジム・ローンの言葉にもあるように「いつもやっていることをやっていれば、いつも手に入るものしか手に入らない」ことは確かだ。だからこそ、あえて違う毎日を、特別な今日を過ごすようにしてみよう。

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