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2009.04.06

桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった

【信長の戦い1】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった (新書y) (新書y)  今年の 7 冊目。藤本 正行「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」読了。
 以前から、独自の説を展開しているそうだ。信長フリークと自称している割には、ぼく自身まったく知らなかったが、というのも物語の中の信長しか見てこなかったからということがいえそうだが、これを機にもうちょっと真面目に信長のことを見ていこうと思っている。
 信長が戦国史に華々しくデビューした戦いが桶狭間なんだが、しかもそれがあまりにもドラマチックだから多くの人の心に強烈な印象を与えているだろう。しかし、この本を読むと、それまで思っていた桶狭間と事実はもしかしたらまったく違うんじゃないかと納得してしまう。

 桶狭間が奇襲戦法だったという記述をしているのが江戸時代に書かれた「甫庵信長記」なんだそうだ。しかしこの本でも根幹となる資料で太田牛一が書いた「信長公記」には奇襲に関する記述はいっさいない。しかし、この奇襲戦法を参謀本部が明治時代に刊行した「日本史・桶狭間役」で認定してしまったから、常識化したようだ。軍事のプロが書いた本だからということで、疑問視する向きはいままでほとんどなかったらしい。なかには「信長公記」と「甫庵信長記」に相違点があると、牛一が勘違いしたのだと、この奇襲戦法がさも事実だったように説明しているらしい。
 同時代に、というかほぼ信長と一緒に生きてきた太田牛一が書いたものと、後にいろいろな話を総合してまとめたもののどちらに真実がより多く含まれているかなんてことは、常識的に考えれば答えは決まるはずなのにね。
 ということで、この本ではいままでのそういったさまざまな説に対して論証しているところがおもしろい。

 「信長公記」によると、信長軍は正面から義元の本隊にぶつかっていったそうだ。ただし、この点に大きな誤解があると思うが、当時の兵士たちは、ほぼ半農半兵だったんだが、実は信長軍だけは違う。このことを知らない人があまりにも多い。
 川中島の合戦も何度も中断しているが、これは田植えと稲刈りの時期に戦争ができないからでもある。実はこれで疲弊して最後には信長に敗れたのが美濃だ。確かに、美濃三人衆が寝返ったということもあったろうが、時期を選ばずに戦闘を仕掛けられた美濃はやがては国全体が疲弊したんだそうだ。というか、作物を育てなきゃいけない大切な時期に繰り返し繰り返し駆り出されたら堪ったもんじゃないよね。人心は離反していくし国は荒れるし、そりゃ潰れちゃうでしょ。ちなみに、信長が美濃を攻略するまでに十年以上かかっている。
 だから義元軍の方が多かったのは事実だろうけど、大高城や鳴海城などに人を割いているし、しかも本隊といえども旗本たちは別にして雑兵のほとんどが普段は農民であれば、常に戦闘を繰り返している信長軍に圧されたとしても不思議ではない。ということで、本隊が総崩れになり、撤退戦を余儀なくされたところを討ち取られたそうだ。
 ということであれば正面突破も頷ける。

 それともうひとつ。当時の武将たちはすべて天下を狙っていたように思われているが、というか、ぼく自身もそうやって学校では教わったように思うけど、そんなことはない。ほとんどの武将が自分たちの領国の運営を第一にしか考えていなかったはずだ。また、この当時の「天下」という言葉が意味をするのは、近畿全域を指すらしい。このあたりはまだ勉強不足なので、そのうちまた書くことになるかもしれない。この桶狭間での戦いは、信長を裏切って義元側についた鳴海城を巡る攻防が原因にあるということを忘れてはいけない。自らの領国を治めるための軍と、その境界線上にある鳴海城の支援の部隊が激突した場合、どちらが死に物狂いになるかは改めていうまでもないよね。
 ということで、これからちょっと集中的に信長を勉強してみよう。
 まずは中公新書のいくつかを読んでそれから「信長公記」を読むつもり。

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