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2008.03.11

ティファニーで朝食を

ティファニーで朝食を  今年の 14 冊目。トルーマン・カポーティ、村上春樹訳「ティファニーで朝食を」読了。
 ブンガクであろうとなかろうとどうでもいいんだけど、小説というやつの本質がぼくにはよくわかっていないような気がする。特に、村上春樹が訳している小説を読んでいるとどこに本質的なおもしろさがあって、どこが素晴らしいのかわからなくなってしまうことがある。確かに「ティファニーで朝食を」はいい小説なのかもしれない。けれど、いい「小説」とそうでない「小説」の区別がいったいどこにあるのかさっぱりわからないのだ。
 まぁ、ようするにまだまだ読みが足りないということなんだろう。
 カポーティを代表する作品といっていいだろう「ティファニーで朝食を」ははじめて読んだ。ただ、個人的にいろいろと感情が揺れ動いている最中の読書だったので、どこまで入り込めたのかさっぱりわからない。それでもこの中編と一緒に収録されている短編のキーワードがあとがきで村上春樹が書いているように「イノセンス」なんだということはわかる。
 そしてそれが人の感情を、プリミティブな感情を揺さぶるひとつのキーワードなんだろうとは想像がつく。こんな時代なんだからと、カポーティが書いたときもいわれたんだろうけどがんじがらめで閉塞感しか感じられない人たちが心のどこかで求めるのは、幼い頃に抱いたイノセントな憧憬であり、また反社会的なまでのイノセントな行動だったりするのかもしれない。それがここにある、ということで多くの人たちの共感を呼ぶんだろうか? いい、悪いはともかくぼく自身が求めている小説というのはもっともっと個人的なものであってよくて、けっして時代がどうのとか、多くの共感を呼ぶだとか、普遍性がどうのではないような気がする。
 いや、カポーティの本がどうのということではなくなったので、もうやめるけど、それでもなんだろう、このところ「小説」を読んでいると、単にストーリー展開がおもしろい本だけを求めているわけではないということだけは確かなようだ。そう、もっともっと個人的ななにかなんだよね。
 精神的に落ち着けるようなったら、もうちょっとまともなことが考えられるようになるかもしれない。このことはそのときに改めて考えよう。

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